隙間でダンス

せまい

それはあたかも何もなかったかのように

昔読んでいたブログの更新が再開されていたのを発見して大変うれしい。

わたしはブログがとても好きだ。それもおともだちや有名人のブログではなく、全然知らない、ほんとうに普通の人が書くブログが好きだ。今日はどこに行ったとか、どんな本を読んだとか、そんな些細なことがわたしにとっては宝物だ。
考えを文章にできなくて、もどかしい気持ちが表れているブログ、好き。うぬぼれを体現したような、全てを知ったような書き方のブログ、全然OK。わたしはわりあい飾らない文章が好みだけど、見栄をはって飾った文だって悪くない。技巧なんか無くてかまわないし、顔文字だらけでも許しちゃう。嘘ばかり書かれていたっていい。ふとした時、片隅のブログのほんの一行に、わたしの心はどうしようもなく震えてしまうことがある。
ブログに悲しい出来事がつづられていると、わたしもいっしょにちょっとだけ悲しくなる。でもそんなことは傲慢だし、そもそも他人の人生なんてわたしには関係ないのだからきっとそれはすぐに忘れる。そのうちに、気が付くとそのブログは閉鎖されている。いつだってわたしには言葉をかけることすらできない。また新たな場所で何もなかったように、新しいブログを始めてくれたらいいと小さく願う。そんなことを何回も何回も繰り返している。

このブログを書くために、何度も文章を消して書き直している。書いた端から嘘になっていくし、わたしには言いたいことなんて本当はひとつもない。「わたしは書けない」というたったそのことだけですら、ちゃんと書くことができない。どんな例えも外してしまう自信があるし、せいぜいたどり着けない何かににじり寄るくらいが精いっぱいだ。それすら傲慢だったら教えてほしい。わたしはいつだってうまく書けない。
そして現実でもわたしはうまくしゃべれないし、だから人間はうまくしゃべることができない作りになっているんだと思う(思いたい)。そのせいで、うまくしゃべれなかった分、みんなブログを書いているんじゃないかと時々思う。ものごとを美しく書くにはブログはぴったりだとわたしは思う。

世界中のブログがすべて底のほうで繋がっているのがわたしには見える。それを辿っていくとひとつの巨大な生物であることがわかる。語られなかった言葉を食べようと、見えない巨大生物が身をくねらせている。世界中がその生物の餌場と化している。開きっぱなしの口からは涎がしたたり落ちているし、成長しすぎた手足の数はもう数えきれない。何百もある眼球でわたしたちを監視し、生まれる前の言葉を探し回っている。そして日常の隙間にするすると手を伸ばし、誰にも気づかれないうちにそれを捕食するのだ。食われる言葉たちは決して音を発しないだろう。それはなんなく消化されてゆくだろう。肥大化した腹はどこまでもどこまでも膨らんでゆき、やがてそれは世界を包み込むだろう。あるいはすでに世界は内包されているだろう。巨大生物の腹の中で、それでもわたしたちはブログを書き続けるだろう。そして閉鎖されたブログたちだけが人知れず排泄され、現実に厚みのない404 Not Foundはどこまでも沈殿されてゆき、確かにあったはずの生活や気持ちは抹消され、それはまるで幻だったかのように、それはあたかも何もなかったかのように。