隙間でダンス

せまい

歌のプレゼントありがとう

懐かしかったです。夏フェスでこの曲を聴いたとき、夕日がまぶしかったです。大学生でした。お友達とおしゃべりするのが好きで、でも一人でいるのも同じくらい好きでした。風が気持ちよくて、曲にあわせてみんなゆらゆら揺れていました。わたしも揺れていました。好きな人が好きな曲だったので、わたしもこの曲が好きになったのです。ずっとこんな気持ちが続けばいいなと思っていました。暑い一日で、のどが渇いていました。わたしは二十歳になったばかりで、だから若くて、ビールよりもかき氷が食べたいと思っていました。オレンジ色の空には鳥が飛んでいて、こんもりした雲が浮かんでいて、それがとてもきれいでした。とてもきれいだったのを思い出しました。みんな元気かなあ。わたしは元気だようって、そう伝えられないのが残念です。

ううん、大丈夫です。ちょっと疲れただけだから、少し横になればすぐ治ります。泣いてなんかいません。びっくりしただけです。今日の夕日があまりにきれいで。目に沁みちゃって…。

歌のプレゼントどうもありがとう。うれしかったです。それではおやすみ、おやすみ。明日になれば、またいつものわたしだから。

コカ・コーラの空き缶が

今年の夏は暑い。暑すぎる。暑さのせいで一週間に一万人が倒れたらしい。無理もない。それほどまでの猛烈な暑さだ。最近では、あまりに暑いから人間以外のものも倒れている。犬や、猫、電柱なんかも倒れている。それだけではない。ガードレールも鉄塔も倒れたし、浜辺に置かれたコカ・コーラの空き缶も倒れた。誰かの幸せだった時代が倒れた。挫折した友人が倒れた。倒れたものの上にさらにものが倒れて、もはや辺りは、人間か瓦礫か区別がつかないくらいになっている。もしかしたらそれらは元から似たものだったのかもしれない。しかし今となっては真実はわからない。倒れたものたちに近づくと、どうやら何か言っている。とぎれとぎれのかすれた声だ。ものが倒れる音の合間に、微かな声だが確かに聞こえた。「もうたくさんだ――」。

倒れずに残っているものは、「AIによる映画の作り方」と「恋愛の技術」くらいしかない。

飛行ねこ

あ、飛行機雲だ、と思ったら、そうではなくてそれは飛行ねこだった。飛行ねこは飛行するねこで、連なって飛ぶから飛行機雲とよく間違える。西へ、西へ、飛行ねこは夕日に向かって一列になって飛んでいく。四肢でゆっくりと空を蹴り、頭を上げて彼方を見つめ、悠然と飛行するその様子は、音のない映画みたいな沈黙に満ちている。

 

見上げた拍子に、とろり、と、耳の奥の水が抜け出るのを感じた。昼間のプールで入ってしまっていたのだ。体温より熱い水が流れ出て、耳からわたしが溶けてしまいそうだ。日中の熱風も夕方にはおさまり、身体のだるさと空腹が心地いい。

 

遠くでチャイムが鳴った。たまにしかならないチャイムだから今日は運がいい。「きょうのひはさようなら」のメロディーが風に乗って流れてくる。いつまでも、たえることなく、ともだちで、いよう。飛行ねこがゆっくりと進む。

 

ひこうねこだ、と、どこかで子どもの声がした。ちがうよ、あれは飛行機雲だよ、とお母さんの声がした。飛行ねこは飛行機雲とよく似ているから、まちがえても仕方ないね。

 

それはあたかも何もなかったかのように

昔読んでいたブログの更新が再開されていたのを発見して大変うれしい。

わたしはブログがとても好きだ。それもおともだちや有名人のブログではなく、全然知らない、ほんとうに普通の人が書くブログが好きだ。今日はどこに行ったとか、どんな本を読んだとか、そんな些細なことがわたしにとっては宝物だ。
考えを文章にできなくて、もどかしい気持ちが表れているブログ、好き。うぬぼれを体現したような、全てを知ったような書き方のブログ、全然OK。わたしはわりあい飾らない文章が好みだけど、見栄をはって飾った文だって悪くない。技巧なんか無くてかまわないし、顔文字だらけでも許しちゃう。嘘ばかり書かれていたっていい。ふとした時、片隅のブログのほんの一行に、わたしの心はどうしようもなく震えてしまうことがある。
ブログに悲しい出来事がつづられていると、わたしもいっしょにちょっとだけ悲しくなる。でもそんなことは傲慢だし、そもそも他人の人生なんてわたしには関係ないのだからきっとそれはすぐに忘れる。そのうちに、気が付くとそのブログは閉鎖されている。いつだってわたしには言葉をかけることすらできない。また新たな場所で何もなかったように、新しいブログを始めてくれたらいいと小さく願う。そんなことを何回も何回も繰り返している。

このブログを書くために、何度も文章を消して書き直している。書いた端から嘘になっていくし、わたしには言いたいことなんて本当はひとつもない。「わたしは書けない」というたったそのことだけですら、ちゃんと書くことができない。どんな例えも外してしまう自信があるし、せいぜいたどり着けない何かににじり寄るくらいが精いっぱいだ。それすら傲慢だったら教えてほしい。わたしはいつだってうまく書けない。
そして現実でもわたしはうまくしゃべれないし、だから人間はうまくしゃべることができない作りになっているんだと思う(思いたい)。そのせいで、うまくしゃべれなかった分、みんなブログを書いているんじゃないかと時々思う。ものごとを美しく書くにはブログはぴったりだとわたしは思う。

世界中のブログがすべて底のほうで繋がっているのがわたしには見える。それを辿っていくとひとつの巨大な生物であることがわかる。語られなかった言葉を食べようと、見えない巨大生物が身をくねらせている。世界中がその生物の餌場と化している。開きっぱなしの口からは涎がしたたり落ちているし、成長しすぎた手足の数はもう数えきれない。何百もある眼球でわたしたちを監視し、生まれる前の言葉を探し回っている。そして日常の隙間にするすると手を伸ばし、誰にも気づかれないうちにそれを捕食するのだ。食われる言葉たちは決して音を発しないだろう。それはなんなく消化されてゆくだろう。肥大化した腹はどこまでもどこまでも膨らんでゆき、やがてそれは世界を包み込むだろう。あるいはすでに世界は内包されているだろう。巨大生物の腹の中で、それでもわたしたちはブログを書き続けるだろう。そして閉鎖されたブログたちだけが人知れず排泄され、現実に厚みのない404 Not Foundはどこまでも沈殿されてゆき、確かにあったはずの生活や気持ちは抹消され、それはまるで幻だったかのように、それはあたかも何もなかったかのように。